1. はじめに
ここに記した内容は、「親英体道」をできうる限り正しく正確に説明しようと解説したものです。
しかしながら、これを読んだだけでは「親英体道」を十分に「ご理解」いただくことは出来ません。
親英体道とは何か、それは全て実際の日々のお稽古の中にその答えがあり、言葉で解説できるものではないからです。
かといって、いきなり説明もなくとりあえず一緒にお稽古をしましょうというのは難しいでしょう。
そこで、「親英体道」について「どういう武道なのか?」、「何を目指しているのか?」など、普遍的に何かを始める前に関心を持たれるであろう点を答えたいと思い解説しました。
縁あって今お読みくださる皆様が、お稽古を始める端緒になれば幸いです。
令和四年吉日
親英体道 代表 和多田 十三
2. 親英体道とは何か
2-1. 継承され続ける『極意』
『親英体道とは
宇宙の親和力の力徳を
表現体より具現する
胆力を養成する
お稽古です』
初見の皆様は、この言葉の難解さに驚かれるのではないでしょうか。
それも無理はありません。
この『御言葉』は、道場内で常に目に付く場所に掲げられていますが、お稽古し始めの頃は誰しも、奥深そうだと感じつつもその難解さに理解が追いつかず、色々な感想を持つものです。
しかしながら、実際にお稽古を習い始めると、これほど親英体道を説明出来ているものは無いと確信できるようになっていきます。
これは親英体道の道祖である、井上鑑昭(いのうえのりあき)先生が親英体道とは何かについて述べた『御言葉』です。
もともとその元になっているのは、井上先生のご実家である井上家に、古事記の頃以前から脈々と伝わる、『平法学』という陰陽道や帝王学とも似て非なる唯一無二の教えです。
この『平法学』を、井上先生が一生を通して研鑽し、集大成としてまとめたものが親英体道になります。
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そして私たちの師である油井靖憲(ゆいやすのり)先生が、親英体道を継承された時にこの『御言葉』も引き継がれ、我々お稽古人に残してくれた親英体道の『基本』とも『極意』ともなる言葉です。
それぞれの行の切り方、一つ一つの文言もいく通りにも解釈が出来、全体の文言をもってお稽古内容を説明しているため、何とも深遠で奥深く、正しく理解し体得していくためにはとても長い時間がかかる言葉であります。
そこで、まずはその一端だけでもご理解いただくため、次の3つの視点から解説していきます。
①『流れのお稽古』
②『陰と陽』
③『生成化育(せいせいかいく)』(教育の実体)
どちらにしても意味が難しいと思われるかもしれませんが、この後一つずつ丁寧に説明していきます。
2-2.『流れのお稽古』という在り方
ここでは、親英体道の『流れ』という在り方を中心に、先の『極意』をもう少し噛み砕いて説明いたします。
油井先生からは「親英体道とは流れのお稽古です」と井上先生がおっしゃっていたと伺ったことがあります。
では、『流れのお稽古』とはなんでしょうか。
まずは『流れ』について、私達の身の回りである「自然界」の動き(流れ)を例に取りお話ししましょう。
一日は太陽の日の出から始まり、天中に昇りやがて日が沈みます。
月もまた同じく昇り沈みを繰り返し、その形は満ち欠けをしながら変化します。
その日の天気・天候も太陽や月の影響を受け、さらには雲や風や雨や雪、海の潮の満ち引きなどを伴って我々に目に見える形に具現化し変化をもたらします。
その日の重なりが季節となり四季を作り一年を作り上げます。
季節の移り変わりがはっきりしている日本の気候は、普段の生活の中でこうした自然の動きを感じやすいでしょう。
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これらの太陽や月や風など、自然の中にあるひとつひとつの繋がりを通しているのが『流れ』なのです。
例えば、日が昇るという「現象」は見えますが、日が昇る「理(ことわり)」、つまりそこに働いている引力や自転の力・影響そのものは見えません。
同じように、波が繰り返し押し寄せる「現象」も目には見えますが、そこにある月の引力や風や水流そのもの(を支配する「理(ことわり)」)は直接見ることは出来ません。
つまりこうした自然界の「現象」の中には常に、それらを具現化している純然とした「理(ことわり)」があり、それが宇宙の法則によって動き続けている自然の『流れ』なのです。
そして我々の身体も、この法則にしたがって『流れ』ているのです。
地球に住む以上当たり前のことですが、なかなか気がつけない事ですね。
この自然界の目に見えない『流れ』を、自然の一部でもある私達のカラダ(表現体)で体現(具現)することが出来ることに気がつき、それをまとめ上げたのが親英体道ではないかと考えています。
もちろん、武道でもありますので、相手に技をかけますが、そこにあるのは自然の親和した流れなのです。
このような動きを体現する事で、ひいては邪(よこしま)な強い力に対して、「自(おの)ずから」身を守ることにもなります。
この私達のカラダ(表現体)で体現(具現)することを、便宜的に『流れのお稽古』と言った方が簡単で解りやすいのかもしれせん。
ただ、『流れのお稽古』という言葉で表すのは簡単ですが、実際に体現(具現)することは非常に大変です。
目で見た形を追うように体を動かすだけでは、流れのお稽古とは言えません。
そこには、自然と同じような、空や風や太陽のような意識になって自然に動く必要があるからです。
しかし、人には恐怖心や、時に邪(よこしま)な心が生じ、そこから逃れようと「カラダから目をそらし」て、「アタマで考えながら」行動してしまうため、容易にこの意識を持つことは難しいのです。
親英体道には、ひとつひとつの身体の動きとして、技の名称や動かし方、細かい所作というものがありますが、それは一つの線を描くように一体となって『流れ』ていなければ、『親英体道の動き』とはならず、いわゆる武道的な技としても相手に効かなくなります。
この『流れのお稽古』が体現(具現)出来ているかどうかを、言葉で説明するのはとても容易な事ではありません。
しかし、自らの心身の動きに目を向けながら、実際にお稽古することで、体感し感得する事が出来ます。
ですから、先輩後輩分け隔てなく、実際に手と手を取り合って、お互い真剣に打ち込んだ時に腑に落ちてくるのが『流れのお稽古』なのではないかと考えています。
私自身は道祖のお稽古を直接受けたわけではありませんが、油井先生の動きの中に不思議と道祖の『流れ』を感じ取り、それが私の中で生きつづけています。
言葉では残せないものが、お稽古の中にはあるのです。
初めて私が道場に足を運んだ時、油井先生は波のように流れるような動きをご披露くださり、色々質問をすると『まぁ、まずはお稽古をしてみてください』と笑顔でおっしゃった事をよく覚えています。
そして実際にお稽古をしてみると、先ほどまで見たものとまったく異なる衝撃をうけたのです。
是非この体験を、皆様にもしていただきたいものだなと思い、日々お稽古に励んでおります。
2-3. 『陰と陽』の真理とその動き
親英体道について説明していると、道場でもよく、『陰と陽』の在り方をつかって説明することがあります。
古事記の中にもみられるイザナミとイザナキ(イザナギ)の働きように、陰陽の考え方が親英体道でも取り入れられています。
(陰陽については、道教との繋がりも言われますが、古来から日本にもある考え方と聞いております。)
己の両の手を剣に見立て、いつも陰の剣と陽の剣、二本の剣が一体となって、あたかもそれぞれが龍の如く動く事を教わります。
これを武術的にいうと「二刀流」で、基本は「直刀の二刀」を使った動きとなります。なので動きが、おおらかに舞いを踊る「御神楽」の如き動きとなります。
そしてそれぞれの剣を『流れ』に沿って動かすことがお稽古です。
剣は、常に陰が陽となり陽が陰となり動き続けます。
そして、ここで大切なのはいつも『陰の剣』です。
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どのような体の動きも、心や意識など言葉にならない、目に見えない働き(『陰』)が始まりとなって流れ始めます。
大切なものの始まりは、いつも目に見えないのです。
油井先生のお言葉で、
『幽(ゆう)の幽(ゆう)から始まり、
幽の顕(けん)となり、
顕の幽を経て、
顕の顕となる』
という言葉があります。
よく「建物」に例えてお話しされてました。
家を建てようという思いから始まり(幽の幽)
設計図を書き(幽の顕)
材料である建材を集め(顕の幽)
組み上がって建物が完成する(顕の顕)
物事は全て目に見えない意識(『陰』=「幽(ゆう)」)から始まり「顕(けん)」在化するのです。
これを、自身の身体に置き換えてみてみると、意識から始まり、足や腰や指先まで動きとなって現れます。 全ては意識(『陰』=「幽(ゆう)」)から始まるのです。
仮に一見同じ動きに見えても、その意識の途中に恐怖心や邪心が加わると、カラダに力が入り、呼吸が乱れ、カラダが固まります。
他方で、自然な意識で動く『流れ』は、相手すら巻き込み、美しく舞のように動きます。
無為自然の意識で動かなければならないのです。
この意識を保つために、『胆力』が必要となります。
『胆力』に意識をむけて、そこを中心に動きますと『宇宙の親和力の力徳』を感じながら動くことが出来ます。
この力をもって、邪な心を生み出さず、意識をブレさせずに、体を動かしますと、先に述べた『流れ』が具現化されます。
これが『胆力を養成する』の一つの内容です。
このようにして、陰陽一体となった『流れ』が出来る様に『胆力』を養うのがお稽古の内容になります。
2-4. 武道にとどまらない「教育の実体」としての在り方
油井先生からお聞きしたお言葉で、井上先生が『親英体道とは生成化育の実体である。教育の実体である。良かったり良かったりでなければならない』と述べられたそうです。
ここで皆様にもう一度、『極意』の御言葉を見ていただこうと思います。
『親英体道とは
宇宙の親和力の力徳を
表現体より具現する
胆力を養成する
お稽古です』
この中に一言も「相手を倒す」や「相手を制する」といった言葉がないことにお気づきでしょうか。
親英体道は、相手を「倒す」武術ではありません。
ある程度お稽古を続けて「入門」し、『流れ』がわかってくると、お稽古のなかで「是化(ぜか)し美化(びか)する」ことを心がけるよう指導しております。
わかりやすく言えば、今日のお稽古が、より良いものになるためにはいま何をすべきかをつかみ、実践してゆく事です。
昨日できた事を、同じように今日してもダメなのです。
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生きていれば、時には誰か(何か)と対立や敵対をする場合もあるかと思いますが、その時、己の在り方をどう示すかが重要になっていきます。
その際に重要なこととして、親英体道では、沢山ある『宇宙の親和力』(自然の流れに則した力)のなかから、『力徳』に焦点をあてております。
相手を倒す力でも、やり込める力でもなく、徳のある力です。
そしてこれを「具現させる」ために不可欠なものとして『胆力』を説いてます。
胆力を「養成する」ためには、今の自分の生き方や在り方を見つめ、自分自身の至らないところを認めて反省し、より良くしていこうと努めることが必要です。(もちろんこれだけでなく他にも沢山の努力が必要です。)
この事を道祖・井上鑑昭先生が『教育の実体』と述べられたのではないかと私は考えております。
また、似た言葉で『生成化育(せいせいかいく)』の実体でもあるとおっしゃっております。
これは神道などで使われる言葉で、好んで井上先生や油井先生がお使いになられた言葉です。
簡単に説明しますと、生けとし生けるものすべてが、より良い方向へ変化し、成長し、育まれていく事と言えば分かりますでしょうか。
このような流れや考え方に基づいて、親英体道は井上先生によって集大成されたお稽古なのです。
3. 日々のお稽古について
親英体道では、稽古を始めるにあたって、かならず祝詞を神棚に奏上します。
心を清めてから、その日のお稽古を行います。
お稽古は毎回三本の『流れ』を、教授(きょうじゅ:師範クラスの指導者)が示し、それを見真似て2人1組となって取り組みます。
そして、お稽古が終わると、また祝詞を奏上し無事に終わったことをご報告します。
親英体道は、スポーツとは異なり、神事としてお稽古を捉えています。
(元来の武道も惟神(かんながら)の道を追求する手段の一つです。)
ですから、心構えや、身なりにも最低限の配慮が必要です。
例えば、特定の技をを盗むような気持ちで、他の武道も続けながらお稽古する事は意味がなくお断りしています。それはご自身が学ばれてる武道や先生をも冒涜(ぼうとく)することであるからです。
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純粋に、このお稽古を勉強をする気持ちで励まなければ何も会得することは出来ません。
お稽古するにあたっては、このように正しい心構えで身体を清潔にし、つけ爪やアクセサリーなど相手を傷つけるようなものはつけずに、良識ある行動が求められます。
そのなかでお稽古人同士は、上の段位の人はより上の在り方を、初心者の方は、その立場の在り方で、お互い真剣に一所懸命の気持ちで礼(「お願いします」と声掛け)をしてお稽古に励みます。
同じお稽古をしますが、お稽古をする時節や場所、稽古人ひとりひとりの立ち位置によって(これを「時・処・位(じしょい)」と言います)内容はそれぞれまったく異なるのです。
例えば、上の立場のものは、『教育の実体である』ならば、下の立場のものと相対した時はより配慮をした在り方が求められます。
怪我のないよう細心の注意を払いつつ、いかにして流れを理解してもらうのか。
相手が弱いからといって技に任せて投げ飛ばしたり、関節を決めるのがお稽古では無いのです。
逆に、教わる者は、それに対して真剣に、今出せる全てをその流れに出し切らなければなりません。
油井先生は、ご引退されるまで常に入門前のお稽古人の方ですら、直接手を取ってご教授くださり、『上の者が、紙一枚下手(しもて)に立って、導いてあげなさい。』とおっしゃられていました。
先生を投げ飛ばすなんてと、初めたての頃は衝撃をうけましたが
『強くなる程に、弱くなれ、弱くならなければ、相手の気持ちがわからないだろ。本当の教育とは手と手を取り合って一緒に勉強していくものなのですよ。』とご指導くださったのは忘れられません。
話はすこし逸れますが、油井先生が東日本震災の際に、被災したお稽古人や被災者の気持ちになれるように、あえて断食とガスや電気を絶ってその気持ちを慮ることもされていました。
先生ご自身も、そんな事で実際にわかるとは思わないまでも、辛い気持ちの一端でも解ればというその姿勢は、まさにこうした親英体道の実践を我々に示して頂いたのだなと思います。
お稽古の動きは、直刀の動きを前提として、一見すると舞を踊るような動きに見えるかもしれません。
しかしながら、実際にやってみると非常に難しく、大変な動きです。
はた目には決して激しい動きには見えないのに、汗が滝のように流れることもあります。
しかしお稽古が終わった後は、汗がベタつくような感覚はまったくなく、サラサラと心地よい余韻だけが残ります。
不思議なことに、お稽古すればするほど、心身に元気が漲り、心も体も健やかになっていくことが実感できます。
これはすべての動きにおいて、お稽古をする者の心身の状態がより良くなるように作られているからです。
武道の技でありながら、整体にもなっているのです。細かいことは省きますが、正しくお稽古を行えば、全ての技が相手やご自身の身体をも整えて、「自(おの)ずから」より良い状態になっていける動きとなっています。
このことから、井上先生は『生成化育(せいせいかいく)』の実体であるともおっしゃっていたわけです。
決して、倒したり、やっつけたり、痛めたりする事に目的はありませんから、老若男女を問わずお稽古をする事ができます。
それでいて、物事の真理、武道の真髄に触れられるような深い愉(たの)しみがあります。
『親英体道とは
宇宙の親和力の力徳を
表現体より具現する
胆力を養成する
お稽古です』
ここまで解説すると、まさにこれが親英体道のお稽古であるといった意味がご理解頂けるのではないでしょうか。
ご興味を持たれた方は、現在は見学を受け入れておりますので、ご相談ください。
縁あって、お読みになられてる皆様と共にお稽古出来る日を楽しみにしております。
令和四年吉日
親英体道 代表 和多田 十三